私は怨念を余り信じないのであるが、幾つかの偶然と事実が重なり合うと、怨念を信じるしかないように思う。
孝明天皇の崩御は慶応2年12月29日、その皇太子である明治天皇の崩御が明治45年7月29日である。
二本松藩と長岡藩の陥落日は7月29日。
二本松藩では木村銃太郎(22歳)を隊長として12歳から17歳の62名の少年隊が結成されその多くが殺された。
会津藩は白虎隊が有名であり、白虎隊は自刃がほとんどであったが、二本松藩同様に薩長(特に木戸孝允、西郷隆盛)はその遺体埋葬も禁じ遺体は野ざらしにされた。
孝明天皇の崩御は天然痘とされているがアーネスト・サトウ(イギリス外交官)も三条実美一派の毒殺説を示唆している。
明治維新は血塗られた改変で多くの怨念を生じたようだ。
その怨念は大東亜戦争で日本人戦死者200万人以上をもたらしたがそれで収束したとは思われない。
官軍は会津内で自分たち仲間は埋葬したが会津藩に対しては傍若無人の殺戮・略奪・狼藉を繰り返した。二本松藩も同様である。
東京招魂社(後に靖国神社)も賊軍に対しは未だに差別している。これでは怨念が途絶えるわけが無い。過去の過ちは公表することで糺すことが出来る。けれども、現在でもそれをしないでいる。
参考文献:早乙女貢・会津士魂全21巻 林洋海・母成峠
写真は根来梶之助(16歳)。彼は二本松少年隊ではなかったが戦死。
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