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コンピュータはお好き?

1974年、私は株式会社小松製作所・川崎工場に入社配属になった。
それまでコンピュータの「コ」の字にもご縁が無かったが幸か不幸かコンピュータ世界に巻き込まれてしまった。
資材部倉庫課で働くことになったが四半期に一度、膨大な手計算の仕事がありそれをコンピュータ化してくれと申請したらあっさり通った。
と、ここまでは幸の部類だった。ところが、お前も開発要員にしたからやれ、との通達があり、これが不幸の始まりとなった。
事務方の仕事は現場を抱え黒電話を使い過ぎで指が痛くなり鉛筆でダイヤルを回すほどの激務?だった。
そこに余計な仕事を押し付けられ当然抵抗はしたが既に開発計画は出来ており、勝手に人の分まで計画表に盛り込まれている。
言語はコボルであったが教育は3日ですぐコーディング。当時はパンチカードなるものを使っており、80桁のパンチカードにパンチャーで穿孔する。
最初のプログラムはデータチェックであったが結果的に500行くらいのものとなった。
コーディングと言っても最初はフローチャートを書きそれに従ってコボルなる高級言語で書く。
パンチカードが出来ると情報処理室に持ち込んでカードリーダーを使いデジタル化してコンピュータに食わせる。
それからコンパイルと言って実行可能な形に変換し実行する。この辺はバカでも出来るが問題はコンピュータの空き時間で大体夜中の2-4時くらいとなる。その時間しか空いていないのだから行くしかなく、おまけに当時は残業代は全く出ない。
当然バグがどっさり出て簡単な部分は対処出来るがロジックはそうも行かない。日中は激務だが納期が迫り、幸い工場内には隠れ部屋が点在しておりそこに隠れて貧弱な脳みそに汗をかきながらバグ出しをする。これは一種の地獄だった。多分若さとバカさがあったので耐えられたのだろう。
地獄の数ヶ月が去り悪夢の手計算からは開放された。
仕事は在庫管理であったが、他工場と比べると自分の倉庫の回転率は6ヶ月と以上に悪かった。勿論理由はあるのだが、上に言っても入社1年目のガキの言うことなど通らない。で覚えたてのコンピュータを使った。何をしたかというとABC管理の導入で在庫金額の割合の高い部品を狙い撃ちして在庫を減らすのだ。ただこれは簡単ではなかった。我が工場は取引先には評判が悪かった。勝手に設計変更をして取引先にあった使えない在庫に対しては補償をしなかった。当然取引先は在庫を持たない。高額であればあるほど在庫を置かない。それで発注書を前渡しして在庫買取を保証し在庫して貰った。効果は絶大でそれまで一旦検査後入庫していたことを止め全部現場に出した。つまり現場在庫だけにした。言わばトヨタのカンバン方式でこれにより在庫は当然減った。工場時代3年で50本くらいプログラムを作った。
ある日、IBMのSEからいい事を聞いた。
コンピュータシステムというのは組織の人的活動と比べると10分の1くらいしか仕事をしない。大切なことは人的活動を質を高めることであると。
これは当たり前であるが大半のシステム屋は知らないか無視している。
デジタル庁なるものが出来るそうである。コンピュータ化の前にやるべきことをきちんと出来るかどうか、不安がある。

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この記事を書いた人

1949年6月22日福島県郡山市生まれ。会津細井家の末裔。

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